最近、テレビを見ていて、ある言葉に引っかかりました。
それは「平均」という言葉です。
平均年収。
平均気温。
平均的な家庭。
平均的な老後資金。
私たちは、当たり前のように「平均」という言葉を使っています。
でも、よく考えてみると――
平均にぴったり当てはまる人って、どれくらいいるのでしょうか。
平均とは、上と下をならした数字です。
ということは、その数字にちょうど一致する人は、むしろ少数派かもしれません。
それなのに、なぜか私たちは
「平均に近いこと」を安心材料にし、
「平均から外れること」を不安材料にしてしまう。
この違和感を、今日は少しだけ考えてみたいと思います。
なぜなら、私はその言葉を聞くたびに、
どこか心がざわつくからです。
【この記事でわかること】
平均という数字に振り回されず、自分の基準で考えるための視点。
平均は「安心」をつくる数字

数字があると、人は安心する
私たちは「平均」という言葉を聞くと、どこかで安心します。
50代の平均年収。
平均寿命。
平均的な貯蓄額。
老後2000万円問題。
数字が出てくると、基準が示されたような気持ちになるからです。
とくに老後資金や健康、仕事のように不安を伴うテーマでは、
「平均より上か下か」を無意識に測ってしまいます。
基準があると、人は落ち着く。
平均は、そんな“安心の装置”として機能しています。
平均は「真ん中の人」ではない
けれど、ここに落とし穴があります。
平均とは、上と下を均した“計算上の数字”です。
そこに、ぴったり当てはまる人が多いとは限りません。
たとえば、一部の高所得者が平均値を押し上げることもあります。
それでも私たちは、その数字を「現実の中心」のように受け取ってしまう。
本来、平均はただの統計上の概念です。
安心を保証するものでも、目標を示すものでもありません。
それなのに、
いつの間にか「外れてはいけないライン」のように扱ってしまう。
ここから、思考停止が始まります。
平均は目標にしていい数字なのか
平均は「結果」であって「目的」ではない
平均とは、多くの人の結果をならした数字です。
つまり、それは“過去の集計”にすぎません。
誰かが「平均を目指して」生きた結果ではない。
それなのに私たちは、
平均を目標のように扱ってしまうことがあります。
平均年収を目指す。
平均的な老後資金を準備する。
平均的なキャリアを歩む。
しかし、それは本当に自分が望んだ数字でしょうか。
平均は、ただの結果です。
そこに「あなたの納得」は含まれていません。
平均を目標にすると、挑戦は止まる
平均は、上と下を均した地点です。
つまりそこは、
「誰かの突出」を打ち消した場所でもあります。
平均を目指すということは、
無意識に「突出しないこと」を選ぶことでもあります。
もちろん、安定は大切です。
けれど、平均に近づくこと自体が目的になると、
- 少し高い目標を避ける
- 少し違う選択をためらう
- 少し変わった道を引き返す
そんな小さな自己抑制が積み重なります。
そして気づかないうちに、
「失敗しない人生」は選べても、
「自分の輪郭がはっきりする人生」は選びにくくなる。
平均を目標にする限り、大きな後悔は減るかもしれません。
けれど、大きな納得も生まれにくい。
平均は悪者ではありません。
けれど、目標にした瞬間、思考は安全圏に固定されます。
知的に生きるとは、
平均より上を目指すことではなく、
平均を“基準”にしないこと。
その違いは、思っている以上に大きいのです。
平均から外れることは悪いのか

「平均から外れる」と不安になる理由
私たちは、平均から外れると少しだけ不安になります。
平均年収より低い。
平均体重より重い。
平均的なキャリアと違う道を歩いている。
それだけで、「大丈夫だろうか」と心がざわつく。
なぜなら、平均は“多数派”のように見えるからです。
多数派から外れることは、孤立することのように感じてしまう。
けれど、よく考えてみると――
平均は多数派そのものではありません。
ただの計算結果です。
そこに「標準的な人生」が実在しているわけではない。
平均から外れることは、個性の始まり
もし、すべての人が平均通りに生きたら、
突出も、革新も、変化も起きません。
平均より多く本を読む人がいるから、
新しい視点が生まれる。
平均より静かに考える人がいるから、
深い洞察が生まれる。
平均よりゆっくり進む人がいるから、
独自の道が見えてくる。
平均からのズレは、劣っている証拠ではありません。
むしろ、あなたの特徴が表れている場所です。
知的に生きるとは、
平均に合わせることではなく、
自分のズレを観察すること。
そこにこそ、思考の余白があります。
平均を気にすることは、他人と比べることにもつながります。
「比べない」という選択については、こちらで整理しています。

“自分基準”とは、平均を基準にしないこと
平均は「外側の物差し」である
平均という数字は、とても便利です。
けれど、それは常に「外側」にあります。
平均年収。
平均的な働き方。
SNSフォロワー数の平均。
それらは、社会全体をならした結果です。
そこに、あなた個人の価値観や事情は含まれていません。
にもかかわらず、私たちはいつの間にか
その外側の物差しで自分を測り始めます。
平均より上か下か。
普通かどうか。
安心圏にいるかどうか。
しかし、その測り方を続けている限り、
人生はずっと“他人基準”になります。
自分基準は「納得」で決まる
では、何を基準にすればいいのか。
私は、「納得」を軸にしています。
平均に届いていなくても、
多数派ではなくても、
人と違う選択であってもいい。
自分で考え、選び、引き受けているなら、
そこには静かな納得があります。
平均は安心を与えてくれます。
けれど、納得は自信を育てます。
安心は外からもらうもの。
納得は内側から生まれるもの。
この違いは、とても大きいのです。
平均から離れると、思考は自由になる
平均を基準にしないと決めた瞬間、
比較の圧力は弱まります。
「普通はこうだから」
という言葉から、少し距離を取れる。
そのとき初めて、
- 自分は本当は何を望んでいるのか。
- 何に時間を使いたいのか。
- どこで満足するのか。
という問いが立ち上がります。
知的に生きるとは、
平均に近づくことではなく、
自分の輪郭を明確にしていくこと。
自分基準とは、
平均から外れる勇気ではなく、
平均を物差しにしない姿勢なのです。
「自分基準」については、以前の記事でも詳しく書いています。
他人と比べる前に、自分との対話を深めたい方はそちらも参考にしてください。

1分ワーク|あなたが基準にしている“平均”は何ですか

無意識の物差しを書き出してみる
最後に、1分だけ時間を取ってみてください。
いま、あなたが無意識に気にしている“平均”は何でしょうか。
- 平均年収
- 平均的な働き方
- 平均貯蓄額
- 平均体重
- 平均フォロワー数
- 平均的な老後像
どんな小さなものでも構いません。
頭の中にある「これくらいが普通」という数字やイメージを、
紙に書き出してみてください。
書くだけで、距離が生まれます。
その数字は、本当にあなたの望みですか
次に、自分に問いかけます。
その平均は、
本当にあなたが望んだ基準でしょうか。
それとも、
なんとなく社会から受け取った物差しでしょうか。
もし後者なら、
少しだけ手放してみることもできます。
平均を知ることは悪いことではありません。
けれど、平均に縛られる必要もありません。
知的な習慣とは、
数字を疑い、自分の納得を確かめること。
平均という言葉を聞いたとき、
反射的に比較するのではなく、
「これは、誰の基準だろう?」
と一度立ち止まれること。
それだけで、思考はずいぶん自由になります。
平均ではなく「納得」で選ぶという視点については、こちらの記事でも触れています。
成功よりも納得を大切にしたい方へ。

まとめ|平均は便利だが、基準ではない
平均という数字は、社会を理解するためには役立ちます。
けれど、それはあくまで「ならした結果」。
そこに、あなたの人生の意味は含まれていません。
平均より上か下かで安心したり、不安になったりする。
その反応自体は自然なものです。
しかし、知的に生きるとは、
その反応をそのまま受け入れることではなく、
一度立ち止まって考えること。
平均は便利な情報。
でも、人生の基準は自分で決めていい。
平均から外れないことよりも、
自分が納得しているかどうか。
その問いを持ち続けることこそ、
静かに強い「知的な習慣」なのだと思います。
行動の一言
次に「平均」という言葉を聞いたら、
「これは本当に自分の基準だろうか?」と一度だけ問い直してみる。
それだけで、思考は少し自由になります。

